3.自然保護活動への考え。 私は自然保護活動家ではありません。壊されゆく自然や里山を前に、ただノスタルジーとセンチメンタルを抱えて心を痛めているだけの、卑怯な似非ナチュラリストにすぎない。そしてそれが、おそらく都会に暮らす大多数の人たちの素直な感情なのではないかと考えています。
地域の里山を守るために、行政や企業に働きかけると云う困難な活動に献身的に立ち向かっている方々に対しては、心の底から尊敬の念を抱いています。
こんな名も知れぬHPの中で憂い嘆いてみても、それは単なる自己満足に過ぎないことはわかっているつもりです。「行動」と云う小さくとも確実な1歩を踏み出すべきだと云うお叱りもあるでしょう。
しかし、そこまでの活動に踏み込むことができない人たちが、私を含めた大多数なのではないでしょうか。保護活動を強く推されることによって、逆に警戒心から距離をおいてしまうこともあるはずだと思うのです。
私は、そういった人たちの抱く心の痛みがけっして無意味な感傷だとは思いません。
「子供とカブトムシを採りに行きたい」という本当にちっぽけな願いを持ったことをきっかけに、里山の自然に触れ、それまでただ漠然と眺めていた開発に心を痛めるようになることにも、きっと意味があるはずだと感じているのです。
私は父親から虫捕りを教わったこともなければ自然の大切さを諭されたこともありません。おそらく同年代の誰しもが同じではないでしょうか。失われつつあったとは云え自然はまだ私たちのそばにあったし、誰に教わるでもなく、ごく当たり前の少年たちの日常が、昆虫をはじめとした多くの生き物との触れ合いの中にありました。
そう、私たちの親には生き物たちとの係わりあい方を子供に伝える必要など無かったのだと思います。そして私たちの子供は、次の世代に何を伝えるべきかさえ知らずに日々を過ごしている。1960年代という高度成長期に生まれ育った私たちは、ノスタルジーをもって生き物との触れ合いを伝えることのできる最後の世代、いや、それを伝えるべき責務を担わされた唯一の世代なのではないでしょうか。
だから私は、ひとつでも多くの里山を巡り、ひとつでも多くの魅力を見つけ、拙いHPを通じて一人でも多くの方にそれを伝えたいと願っています。
そして途中で出会った開発の爪痕について是非を問うことはせず、見てきた事実をその時の印象のままに書き残して行くつもりです。
願わくは、そこから何かを感じてくれる方が一人でも多くいることを。
行動を起こすこと、そして促すことに大きな意義があるのと同じように、感傷を伝えることにも意味があるのではないか。
私はそう信じ、今こうしてパソコンに向かっています。
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