生態からみた雑木林 陽樹とは?陰樹とは? 光合成と呼吸 広葉樹?針葉樹? 落葉樹?常緑樹?
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【 人が守った雑木林〜遷移とかく乱〜 】

それでは、遷移の最終到達点である極相林は、未来永劫、構成する樹種を変えずにその姿を保ち続けるのでしょうか?

確かに森林全体の相観としては、極相林は極めて安定的なものといえるでしょう。しかし、その部分部分においては決して恒常的なものではありません。台風などによる倒木や、水害、山火事などによって、森林の一部は常にかく乱(=大規模・小規模の倒木や、土砂流出・火災による裸地化など)を受けています。かく乱により現れた空間を「ギャップ」と呼びますが、この明るく開けたギャップ内部では、陽樹を出発点とした局部的な遷移が再開されるのです。

例えば最も著名な極相林のひとつ、奈良の春日山原生林(照葉樹林)での観察では、面積にして年平均0.56%がギャップ化しているといわれています。単純計算ならば200年を待たずに森林全体が遷移に引き戻されることになり、極相林といえども決して安定したものではなく、常に動的な平衡の中でその姿を保っていることがわかります。

このように極相林の一部がギャップ化し、そこを埋めるようにして生じた林分を「二次林」、ギャップの原因となるかく乱が人の手によるものであった場合には特に「代償植生」と呼んでいます。
二次林を構成するのは主として陽性の落葉広葉樹であり、私たちが「雑木林」と呼んでいるのは、正にこの二次林(代償植生)のことなのです。


これまでみてきたように、ある地域の植生は、陰樹の極相林に向かう「遷移」と、その遷移を逆行させる「かく乱」とによって、多種多様でさまざまな樹齢の植物により構成されることになります。多様な植物相は、それに依存する多様な昆虫たちを育み、多様な昆虫たちは、より高次の消費者たちの命を支えることになるでしょう。

自然の力による急激な「かく乱」は、人々の生活を脅かす恐怖でもあります。人は長い歴史の中で、治山治水、灌漑などにより自然のかく乱を封じ込めてきました。しかしその一方で、農業を通じて緩やかな人為的かく乱を自然に対して施し続けもしたのです。

人類初の農耕形態である焼畑は、森林の裸地化(火入れ)に続く数年の作付けと、その後数十年の休閑期とにより、植生の遷移を足踏みさせ続けてきました。
水田は、河川の氾濫によって生じる後背湿地の代わりに、様々な生き物たちの生育と繁殖に必要な浅い水面を提供し続けました。
畑は、豊かな土壌の上にある植相を1・2年生草本の段階にとどめるために、毎年除草され、深く耕されています。
採草のための草山や萱場(かやば)では、飼料や肥料や屋根葺きのための刈り取りや火入が、遷移を草本段階に押し留める役割りを果たしてきました。

そして雑木林。

そこでは肥料としての刈敷(かりしき)や落ち葉・下草が採取され、十数年に一度の伐採により燃料としての薪炭が得られていました。雑木林を構成する樹種の多くが、伐採後すみやかに根株から萌芽し再生する能力に長けたものであることから、資源は枯渇することなく人々の生活の糧を提供し続けることができました。
定期的な刈り取りや伐採は、特定の種類の動植物による独占を許しません。林の伐採は極相に向かう遷移を引き戻し、下草の刈り取りは更に小さな単位での遷移を引き起こすことで、競争に弱い小さく可憐な草花たちに希望の光を与えることになったのです。
農村(ムラ)全体でみれば、伐採された時期の異なる雑木林がまるでモザイクのように並んでいることでしょう。

様々な樹齢の樹木の足下で、様々な種類の草花たちが集う林。植物の多様性が他の生き物たちの多様性を保証する林。そしてその多様な命を支えているのが、他でもない我々人間が生きてゆくための、ごく当たり前の暮らしであること。。。
それこそが雑木林の持つ本当の価値なのだと私は考えています。


四季折々の美しい姿で郷愁を誘うばかりでなく、私たちの文化や価値観、メンタリティを育んできた里山の風景は、こんな風に大自然の大きな流れの中で、人が人として生きるために自然に働きかけることで形作られ、維持されてきたものなのです。

そこでは、手付かずの原生林に勝るとも劣らない多種多様な生物の命が育まれてきました。いや、むしろ、「災害」という名の大規模なかく乱を封印され、原始の森が担うことのできなくなった「遷移の逆行による多様性の維持」の役割りを、農の風景が緩やかに代替しているといった方が正確なのかも知れません。

戦後の数十年、人々の価値観の変化が農村の生活を大きく変えています。科学や技術の進歩は、もはや雑木林からの恵みを一切必要としない農業や人々の暮らしを確立してくれました。肥料としての下草や落ち葉も、燃料としての薪や炭も、私たちには必要ありません。資源供給という価値を失った雑木林は、「人々の暮らしのすぐそばにある広大な土地」という経済的な側面のみで推し量られ、ニュータウンやレジャー施設、ゴルフ場、廃棄物処理場や墓地、資材置き場などへと次々に姿を変えてゆきました。

今、かろうじて残された雑木林も、その多くは利用されることなく放置され、遷移の道を歩み始めています。一見すると立派なクヌギの大木が目立つ鬱蒼とした森は、もはやかつての輝きを放ってはくれません。林床を彩った色とりどりの草花の数々は、既に陰性の低木や陰樹の幼木にその座を奪われてしまっているのです。


人が手を触れてはいけない自然があります。
その一方で、人が働きかけ続けなければならない自然もあります。
地球規模での環境保護が叫ばれる中、大切なのは人の営みと大自然とが、相反する敵対関係にあるのではないと理解することなのだと思います。

そのための理想的な教科書が、ごく身近にある雑木林から見つかるはずです。今こそ、私たちは雑木林の本当の価値を見つめ直し、その履歴の持つ重みを未来へとつなぐために何をすべきなのかを知る必要があるのではないでしょうか。


雑木林の遊歩道 〜小さき者へ〜 
雑木林とは? 「植物の生態から考える雑木林」



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